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確かに小説や漫画や映画の世界では、「トラウマ」というのは、「『克服』されなければならないもの」として取り扱われている場合がほとんどです。そして、それらの作品の登場人物は、さまざまな困難にもめげずに、その「トラウマ」を乗り越えていくのです。
でも、普通の人間にとっては、「トラウマ」というのは「必ずしも克服可能なものではない」のも厳然たる事実なんですよね。たとえば、子供の頃に親に虐待されていたというトラウマを持っている人が、大人になったときにその親を赦して和解できるか?という場合、すべての人が「僕の親なのだから」「私も大人になったのだから」ということで、自分を納得させることができるわけではないと思うのです。いやもちろん、そこで和解できれば「幸せ」なのかもしれないけれども、人間の感情というのはそんなに簡単に切り替えられるようなものではないんですよね。
しかしながら、そこで「和解できない」のも当然のことなのにもかかわらず、「トラウマは乗り越えなければならない」という強迫観念のために「虐待されたトラウマ」+「トラウマを乗り越えられない弱い自分を責める気持ち」に二重に苦しめられてしまうようなことも、現実にはけっして少なくないのです。ドラマに感化されてしまった「トラウマを持たない人」たちは、「人間として、親を赦せないのはおかしい!」なんて平然と口にしたりするものですし。
もちろん、「トラウマ」を乗り越えて幸せになれるのだったらそれに越したことはないのですが、多くの場合、生きるというのは、いろんな「捨てられないネガティブなもの」を抱えながらの旅になってしまいます。でも、そんな荷物の重さに苦しみながらも、人は綺麗な景色を観て感動することができるし、美味しいものを食べたときには頬が緩んでしまったりもするのです。
トラウマを抱えながらでも「それなりに幸せになるという道すじ」だって、たぶん、たくさんあるのです。少なくとも、僕はそう信じています。そもそも、全く挫折のない人生なんて存在しないだろうとも思いますしね。
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挑戦した不成功者には、
再挑戦者としての新しい輝きが約束されるだろうが、
挑戦を避けたままオリてしまったやつには
新しい人生などはない。
岡本太郎
“ ピーター・ドラッカー95歳の詩
もう一度人生をやり直せるなら・・・・
今度はもっと間違いをおかそう。
もっとくつろぎ、もっと肩の力を抜こう。
絶対にこんなに完璧な人間ではなく、もっと、もっと、愚かな人間になろう。
この世には、実際、それほど真剣に思い煩うことなど殆ど無いのだ。
もっと馬鹿になろう、もっと騒ごう、もっと不衛生に生きよう。
もっとたくさんのチャンスをつかみ、行ったことのない場所にももっともっとたくさん行こう。
もっとたくさんアイスクリームを食べ、お酒を飲み、豆はそんなに食べないでおこう。
もっと本当の厄介ごとを抱え込み、頭の中だけで想像する厄介ごとは出来る限り減らそう。
もう一度最初から人生をやり直せるなら、春はもっと早くから裸足になり、秋はもっと遅くまで裸足でいよう。
もっとたくさん冒険をし、もっとたくさんのメリーゴーランドに乗り、もっとたくさんの夕日を見て、もっとたくさんの子供たちと真剣に遊ぼう。
もう一度人生をやり直せるなら・・・・
だが、見ての通り、私はもうやり直しがきかない。
私たちは人生をあまりに厳格に考えすぎていないか?
自分に規制をひき、他人の目を気にして、起こりもしない未来を思い煩ってはクヨクヨ悩んだり、構えたり、落ち込んだり ・・・・
もっとリラックスしよう、もっとシンプルに生きよう、たまには馬鹿になったり、無鉄砲な事をして、人生に潤いや活気、情熱や楽しさを取り戻そう。
人生は完璧にはいかない、だからこそ、生きがいがある。
- P.F.ドラッカー 享年95歳-
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イタリア暮らしも1年半が過ぎた。一言で言えば、普通の国という印象だ。数日前、こんな場面を目にした。
ローマをたち、南部のレッジョカラブリア空港に着いた機内で、前にいた20代後半の女性が、「カメラを無くした」と左後方の知人に慌てて訴えた。彼女は右隣の母親らしき女性と何か話し、次に左隣の40代のフィリピン女性の声が聞こえてきた。「私、眠ってましたから……」
何だろうと思っていたら、通路を挟んで座っていた50代の男性が立ち、きつい口調でこう言った。「なぜ、人のバッグを断りもなしに開けてるんですか。警官でも裁判官でもそんなことはできないよ」
カメラを無くした女性は、フィリピン女性に盗まれたと勘違いし、彼女のバッグを探ったのだ。「彼女に断りました」「断っても人の持ち物を検査などするもんじゃない」
人だかりができ、みなで辺りを捜したが、結局カメラは見つからなかった。
女性には「相手が外国人だから」という偏見、傲慢(ごうまん)さがあったのかもしれない。差別は常にあり、悪人は常にいる。だが大事なのは、良識を語り、社会的弱者の側に立つ人がいることだ。早く降りようとすり抜けていく人もいない。みな目撃者としてその場を離れなかった。騒ぎが大きくなるわけでもない。誰かが怒鳴るわけでもない。
「痴漢」と中学生が声を上げても見て見ぬふりをする。その痴漢を捕まえても誰も協力しない。われ先にと、ベビーカーをまたいで降りていくサラリーマン。東京の私鉄でそんな場面に出くわしたことがある。
それと比べればイタリアは、ごく当たり前のことが起こる、筋の通る社会と言える。
発信箱:ごく普通の国=藤原章生(ローマ支局) - 毎日jp(毎日新聞)


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